御祭神について
日本文化の生みの親
菅原道真公 すがわらのみちざねこう
神 号「天満大自在天神」
菅原道真は845年公家の家に生まれました。 幼いころから詩や文章の才能に秀でた道真は、わずか5歳で和歌を詠んだ事から神童と称されていました。
「美しや紅の色なる梅の花あこが顔にもつけたくぞある」道真は、学問だけではなく、弓も百発百中の腕前で文武両道として、その名を馳せました。道真は18歳という若さで文章生の試験に合格。後に、学者としての最高位である文章博士にも就くことができました。 道真38歳で父が亡くなると菅原家が継いできた私塾も主宰するようになりました。 排出した学者には優れた人物も多く、朝廷の要職に数々の官人を輩出し、菅原家は一大書学閥となっていきました。 また、政治家としてもその能力を発揮します。 讃岐の国の長官として赴任すると疲弊していた讃岐を建てなおすなど、善政を行い民から大変慕われました。 そして、道真より九歳年上で日本史上初の関白に就任するほどの実力者であった藤原基径にも臆せず進言を行う気概もお持ちでした。 地位の低い貴族だった道真ですが、学問に秀でた優秀な能力とその実績から宇多天皇に気骨ない男として常用されます。寛平7年には参議在任わずか2年半にして先任者3人超え、中納言の地位を得ました。 さらに、2年後の寛平9年には要職の右大臣に昇進したのです。 藤原基経の子で左大臣の藤原時平は、この道真の出世ぶりに警戒心を抱きます。 そこで、藤原時平は菅原道真が、醍醐天皇に謀反を企んでいるとして、道真を九州の大宰府へ追いやりました。 その上、大宰府へ向かう道中は食べ物など給付されず、官使の赴任としての待遇もなく、その他にも様々な嫌がらせがあり衣食もままならぬ厳しい生活を強いられながらも皇室のご安泰と国家の平安、また自身の身の潔白をひたすら天にお祈りされ誠を尽くされました。 そして903年、道真は大宰府の地で失意のまま亡くなったのです。 するとその直後から都では異変が相次ぎます。 天災や疫病か増え藤原時平も39歳の若さで死去します。 醍醐天皇の皇太子も2人が続いて亡くなり御所にも雷が落ちます。 これを切っ掛けに体調を崩した醍醐天皇は、そのまま崩御されました。 人々は、これらの異変は道真公の魂が天神となって、その恨みを晴らしているに違いない、道真公の祟りだと信じてその魂を鎮めるために京都に北野天満宮を建てたのです。 その後この祟りの話は忘れ去られますが、道真に詩文の才能があったことから学問の神様として信仰されることになりました。
「柘榴天神図」
『盛岡天満宮所蔵』
菅原道真公没後、藤原時平一族に落雷事故や落雷による邸宅の炎上その他の異変が次々起こり、朝廷をはじめ藤原氏はこれは亡き道真公の怨霊だと察知し、延暦寺に秘法により取り鎮めようと依頼する。 それを知った道真公の怨霊が延暦寺座主尊意を訪ね祈祷を止めるよう頼んだところ座主は「遠いところご苦労様です。問うぞ柘榴でも召し上がれ。」と勧めた。 怨霊はそれを口にするや否や火炎として吐き出し妻戸を燃やしたという。 これは、抑え切れない激しい怒りを表したものである。
『このたびは 幣も取りあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに』
この旅は道中の安全を願って神に捧げる御幣も取りそろえる間がありませんでした、代わりに見事な錦のような紅葉を神々の御心のままにたむけましょう。