御由緒について

盛岡築城の当初、四ツ家と寺町の間にあった社を寛永二年(1625)に紙町川下町裏大手お堀の上に奉遷し、その後、寛文6年(1666)に笹森山に再遷、更に延宝7年(1679)に新八幡宮造営(盛岡八幡宮)のために、現在の新庄村花坂舘に遷座した。 

正保三年(1646)筑紫、安楽寺の住侶、菅家28世の孫、大鳥居信幽法眼(大鳥居信祐)が一夜「十立て栄える梅の雅枝かな」という夢想の発句を得たことから、大宰府の飛梅の古木をもって一刀三礼の丹心をこめて、尊像二体を彫刻し、それを護持して関東に下り、一体を武蔵野国亀戸(現在の亀戸天神社)に安置し、他の一体を寛文2年5月に当、陸中国に下向、中津川の辺りにある天満宮(現在の盛岡天満宮)に安置し、住侶寿円に付託して筑紫に帰ったということである。 盛岡藩主の尊崇篤く、地域万民から学問・文墨祖神・病気平癒の神として親しまれてまいりました。