石碑と歌碑について
筆塚
盛岡における寺子屋の創始者といわれる芝田湛水翁(しばたたんすい)のために、門弟ら千五百有余人が建立したもので、碑石は筆の穂さながらの形をした自然石。(紫波の佐比内の山から運び出されたものと伝えられている)表麺には「筆塚」の二大字を刻し、その傍に「行年七十七歳芝田湛水書」の文字が細刻してある。 高さ2米余、享和3年2月(1804)の建立である。
菅廟植梅記碑
揮毫は岩手県知事、石井省一郎・撰文は、新渡戸仙岳・書は、鳥崎寿太郎の約六百字の漢文体で、当時は奉賛活動の熱気を髣髴させる名文である。明治35年、菅公死後一千年大祭に臨み人々相謀って菅公会を設立し、雑草木を刈って三千坪の拡地を行い、梅一千本の株を植え、境内を整備し、数々の施設を整え、盛大な祭典を催して神慮を慰めるに至った。
境内にある二基の石鳥居、三対の石灯籠、撫牛、神楽殿は皆当時の奉献である。
融通念仏碑
京都の浄蓮華院(じょうれんげいん)の憲眞法印が延宝4年(1676) 7月盛岡城下で融通念仏(念仏系芸能と深い関係)を行ったことを記念したものである。
藩政時代この森には天台守の安楽寺があって天満宮の別当寺ともなっていた。
松尾芭蕉塚 (まつお ばしょう)
江戸時代前期の俳人、松尾芭蕉(1644~1694)は各地を旅して多くの名句と紀行文を残しました。軽妙な口語使用と滑稽な着想によって流行した談林風を超えて、高い文芸性を備えた蕉風の俳諧を確立しました。
◇ 古池や蛙とびこむ水の音 (芭蕉翁)
カエルの形をした台座に、碑石を乗せて、表面に芭蕉の句が刻まれています。 「明和5年(1768)肥後熊本の佳人麻斤坊汶上 之を建てる」と記されていますが、とういう経緯で、熊本の人物がこの場所に芭蕉の俳句を建てたかは、定かではありません。 左右の側面には次の二つの句も刻まれています。
◇ 桜開花一重に弥陀の彼岸哉 (東花坊)
◇ 居らんとして鳥の行芼かな (磯暁庵)
小野素郷句碑 (おの そきょう)
小野素郷は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した盛岡の俳人です。 松尾芭蕉の復興運動を先導し、京都俳壇の中心的存在だった浄土宗の僧侶、五升庵蝶夢に師事しました。帰郷後は奥州四天王の一人と称され、俳諧のほかに観世流謡曲も指導しました。松涛舎・望春亭という別号があります。
◇ 梅開柳青めば夢もなし(松涛)
自筆の句を刻んだ碑は弘化3年(1846)に遺族と弟子たちによって建てられました。
高橋煙山句碑 (たかはし えんざん)
◇ 梅疎なり月照る杜の杉襖
煙山は、明治10年6月8日盛岡市八幡町片原に生まれ、幼名を山崎次郎といった。 生まれた翌年に父と死別し、母は乳飲み子の次郎を伴い、煙山村(現在の矢巾町)の高橋三之助と再婚した。 6歳で煙山小学校に入学、卒業後は11歳で盛岡市内の商家の丁稚奉公を振り出しに、壮士共居の旅役者、煙山役場書記、横浜毎朝の新聞記者、南部鉄瓶の卸商等、いろいろと職を変えながら全国を廻り俳句の研鑽をつみ、大正10年頃から三重県の吟社「松の葉」ほか数社の選句者として、また昭和10年頃から盛岡市の「緑水吟社」(小野一秋宰)の句作の指導にあたった。 この句碑は、昭和26年11月、緑水吟社の弟子達や全国の知人、友人の手により建立したもので、碑石は南昌山山麓の岩崎川からはごばれたものである。 尚、老後は、句作のかたわら俳画や祭の山車づくりの余技を楽しみ、また自ら禁酒禁煙を実行するとともに、その宣伝にも努め書斎を無酒庵と名付け句作三味の余生を送ったが昭和35年6月26日、83歳で没した。
石川啄木歌碑 (いしかわ たくぼく)
石川啄木が青年時代にしばしば訪れたこの天満宮の丘で、昭和8年7月に盛大な碑の除幕式が行われた。 建碑運動からその実現までの約3年間は壮絶な経過をたどった。 建立にこぎつけた盛岡啄木会の苦悩がしのばれる。 渋民鶴塚と函館立侍岬に次いで全国3番目に建てられた啄木歌碑である。
啄木の直筆から集字拡大して自然石に刻まれた。
◇ 病のごと 思郷のこころ湧く日なり 目にあをぞらの煙かなしも
啄木の名声を高めた歌集「一握の砂」「煙一」(盛岡時代の回想)の冒頭に据えられている。
〈病気のように故郷を恋い慕う心が湧くひである。 目にうつる青空の煙が心にしみて悲しいことよ〉 (岩城之徳著より)という歌意で、都会の空に昇っている煙にやって、郷愁の思いに駆らられた心を詠んだ歌である。
高橋青湖句碑 (たかはし せいこ)
高橋青湖(本名高橋初五郎)は、明治22年9月20日に盛岡市で生まれた。 盛岡商業学校を経て、東京芝逓信官吏練習所技術科を卒業。 盛岡郵便局電話課長、日本電話設備株式会社盛岡営業所長の歴任。 昭和55年9月2日没(行年92歳)。 大正4年に俳句を作り始め、不来方吟社を創設。 臼田亜浪に師事、大正6年工藤芳清らと「自然味を」創刊。以後65年間、通巻640号を没年まで主宰し、たくさんの俳人を育成した。大正10年「石楠」の同人。昭和5年臼田亜浪の跡を継ぎ、岩手日報俳壇の選を12年間担当、戦後、岩手日報社発刊「岩手俳句」の監修、岩手県芸術祭俳句大会の選者となり、盛岡俳句研究会外各地句会の指導に努め、現代俳句の普及に貢献した。 著書には句集「谿の音」がある。 昭和40年、喜寿を祝い、知友門弟によって天満宮境内に句碑が建てられた。